承認欲求からの解放とはどのようなものなのだろう。
人間少なからず承認欲求はあると思うのだが、自分は割と少ないのではないか、いや、少なくなってきたのではないかと思っていた。年齢と共に。
NON NON。
バリバリあるやんけ!っていうか塊じゃん!
って気が付いてしまった今日の朝。
そもそも承認欲求って人が生き延びるために身に着けた物なのではないか。
それも無意識に。
恐らく子供の頃に親に認められる事が最初のステップだと思うのだが、それは子供にとって生き延びるための頑張りでもある。
親に認められたくて子供は頑張るのだ。
いい子になってみたり、地団駄ふんだり。どうやったら親に振り向いてもらえるのか、それはもう試行錯誤の連続の上に成り立っているようにも思う。
そう、
承認欲求=自分を守るもの=命を守るもの
と、最終形態は自分の命を守る為にあるものなのかもしれない、と思うのだ。
なんせ子供の場合は親から見放されたら命を保つ事は出来ないから。
大人になるにつれ、それに様々な枝葉がついているからややこしくなるし、一見軽く見えたりする承認欲求だが(SNSの「いいね」数だったり)、最終的には「自分の命を守るため」という重い理由に行きつくと、果たしてこの欲求というものが無くなる、という状態が可能なのだろうか、という疑問にも行きつく。
本来ならば、自立して生活するようになったなら承認欲求など本当は必要ない様にも思うのだが、いかんせん、ふとした瞬間にこの欲求が頭をもたげ出す所を見ると、根っこが深いな、とも思う。
承認欲求が無くなった世界とはどんなものなのか私には未知の世界だが、でもきっと、自由な世界が広がるのではないかと想像する。
私は私
あなたはあなた
あなたが私を選ばなくとも私は私
私があなたを選ばなくともあなたはあなた
そこにお互い一切の価値の変化はない
私があなたを選んだとしてもあなたはあなた
あなたが私を選んだとしても私は私
お互いの良さも価値も知っていて
受け入れられない部分もある
あなたを受け入れなくてもあなたの価値は変わる事はなく
私が受け入れられなくても私の価値も変わる事はない
ただそれだけの話