心のマグマは表現マグマ
心が揺さぶられる音がある。
その延長線上に、心揺さぶられる音楽がある。
心が動く音と動かない音の違いを説明できる程私は音楽に詳しくないが、
心が動く音は、間違いなく私を違う次元に連れて行ってくれる。
ああ羨ましいな。
こんな素晴らしい音が出せて、こんな表現ができて。
羨ましさを超えて何故か悔しさまで出てくる。
言葉もそう。
心の奥底にモヤモヤした形のない「何か」。
まるで届かない背中の痒さから解放されたようなその言葉の表現を見たとき、
ただただ私は感嘆のため息を出すばかり。
ああ、羨ましいな。こんな表現ができて。
本当は自分もやりたいけれど、ちっとも言葉も音も浮かんできやしない。
世界は美しさに満ちている。
本当は美しさに満ちているのだ。
ただそこに私達が生きていくための「現実的」に役立つものは
残念ながら無い。
次元が違うのだ。
だから人はそこに目を向けようとしなくなる。
子供の頃はその世界に浸かり、喜んでいたのに。
でも人間は時々思い出すのだ。
自分の中にある美しさを感じる「懐かしい」センサーに触れるものを。
その瞬間が訪れるとき、自分の中で音が消える。
音は聞こえているがそれは表面だけで、自分の中が静かになる瞬間、
そのセンサーはゆっくりと開いていく。
自分の中の「美しさを捉える心」が開くと時を忘れ、その場にたたずみ、
ただただ美しさに飲み込まれる瞬間は、至福の時間でもある。
あの至福の時間をどう表現したら良いのだろう。
あの至福の「感じ」をどう表現したら良いのだろう。
そんな事を思いながら至福の時間を私の中にしまい込む。
昔、どうしようもなく苦しい時、ふと視線をあげると自然の美しさがあり
心奪われた事がある。
その瞬間は苦しさは無くなるが、現実は何ら変わる事もなく
この世界にいる事にうんざりした覚えがある。
若いころは心が敏感すぎて、自然の美しさや自然の発する「何か」の中にずっとたたずんでいたかった。
美しさのかけらもない現実の世界は私には重すぎて、身動きができなかったのだ。
出来る事なら修道院に入りたい位だったが、何故か「今世は違う」と諦めた。
私の中で、今らなら理由は分かる。
年齢を重ねるに従ってそれは薄まり、現実の世界が少しずつ生きやすくなってきたのだが、今の自分があの頃の自分に出会ったら、一体どんな事を伝えるのだろう。
世の中の神秘は外ではなく自分の中にある。
あなたの持っている世界を誰かが待っている。
未だに私は私の中にある沸々とした「何か」をどう表現して良いのか
分からずにいる。
運命について考える
今日は自分の頭の中を整理する為に書く。
誰に宛てた文章でもない、私自身の為の文章だ。
運命について考える。
「運命とは自分の意志で選ぶ事も変える事も出来るものであるが、他人の意志からも影響を受ける」
一番分かりやすいのが親子関係だ。
私は昔、心理学を少しだけ勉強した事があるが、その問題の多くが「親との関係」や「もはや自分の考えと思い込んでしまっている親の考え」に気づき、いかに手放すかという事が8割位を占めていたように思う。
それ位親の思想、考え方の癖のようなものは私達の考え方に染み付き、一つの癖となり、またそれは人生においても影響を及ぼしていると言っても過言ではないと思う。
その考えは本当に自分のものなのか紐解いていくと、実は「親のものであった」という事は少なくない。
そう思うとこの運命論はすごく納得がいく。
が、ここで思うのだ。
親の影響を受けない人間が果たしているのだろうか?
親に育てられなかったとしても、育ての人間の影響は必ず受けるだろう。なぜなら年齢が小さければ小さいほど、人の脳は潜在意識が丸出しで、全てのものを吸収すると言っても過言ではないからだ。
良くも悪くも生きて行くためには、そして自分を守る為には、自分の側にいる人間を模倣し、それこそ無意識のうちに生きるための自分を作り上げていかなければならない。
それはその子供にとって良い影響も勿論沢山あるだろう。世の中で華々しく活躍していて、なお社会に貢献しているような人は、その人の元々持っているものが親によって引き出され、活かされているパターンが多いように思う。
が、これは一握りの人間で、多くは「親、もしくは他人から刷り込まれた考えを手放し、自分自身に還っていく」パターンを経験するように思う。
本来の自分の人生を歩む前に、自分にとって染み付いた考え方1つ1つに向き合い、それは本当にそうなのかを考え、勇気をもって少しずつ、時には大量に手放す。それは時に痛みとなり涙を流す事さえあるだろう。
その工程を経て本来の自分自身に近づいていく。
果たしてそれは、私が生きている内にたどり着く事ができるのだろうか。
鷹の目
空高く飛ぶ鷹の目からすれば
地上は小さい世界なのだろうか
悠々と空を泳ぐ鷹の目からすれば
私の存在は虫のように見えるのだろうか
私の背中にも翼があったのなら
どんなに良いだろうと思う
気が付けば、幼い頃からそう思っていた
肉体は重い
肉体を構成する細胞の素晴らしさは
ふとした瞬間感じるし
人間の肉体というのは神がかっているとよく思う
が、肉体は重い
地上の欲はこの世を生きていく上で大切なもので
欲があるから肉体を維持させようとも
生きたいとも思うのだと最近思う
魂をこの世に繋ぎ止めるもの
生きがいを失うと言うことは
欲を失うという事なのかもしれない
鷹の目で地上を見下ろした時
私は何を思うのだろう
右脳優位、憧れるねえ
毎日目標と、やる事をノートに書いていくと人生が底上げされる、
というような事を目にしたので早速やってみた。
確かにやる事が明確になると、それをこなそうと動くようになるように思う。
が、しかし。
すごく疲れるのは慣れていないせだろうか。
「やる事」に常に追われていて、くつろげないような気がするのはやはり自分が慣れていないせいなのだろうか。
一方、右脳優位にする為に思考を止めると「今ここ」になり、自然にやる事が浮かんでくる。それをやっていくと、自然に道は開ける、という考え方もある。
個人的にはこちらの方が好きだし、自分にしっくりくるのもこちらの方だ。
が、いかんせん、自分の思考を止めるというのはなかなか難しい。
人間というのは、何か目標がないと辛くなるもののような気がする。
時間があれば色んな事が出来ると思いがちだが、以外に出来る事は限られるし自分が思っているよりもやらないものである、という事は実際に自分を振り返ってもそうだと思う。その点ではやる事が明確である事は、限られた1日を有意義に使えるようにも思う。
が、いかんせん自分が小さく縮こまるような感覚があるのは何故だ。
で、この右脳優位にする事(思考を止める)の状態はすごく憧れがあるのだが、自分の奥底に怖さを感じているのも事実。
それが一体何なのかと突き止めていくと、結局の所「私は何の目標もない」=「私は存在している意味がない」と、まあ自分でもびっくりする位の極端な感情が眠っている事に気がつくのね。
何も考えない事に不安を抱く。常に何か考え、問題を解決しようと考える。(実際はくだらない事や誰かを批判する事が多いのだが)
ずっとそれをやってきたからだよね。
考える事は悪い事ではないのかもしれないけれど…、自分自身ともっと繋がりたいと実際は切に願う。
もう既にあったのなら
何かを創造したくて
ならばやってみようと試みたある日。
心に浮かんだ絵を紙の上に描きたくなり
描いてみて思った。
いや、紛れもない事実として分かった。
「全てはもうある」
そんな事はもう知っていると思っていたけれど
私は何一つ知っていなくて、その衝撃たるや。
一粒の種を土に植える
種は根を張り芽を出す。
その一連を絵で描こうとした時、種は既に存在し
土もすでに存在する事に気が付いたのだ。
その衝撃的事実を改めて体感した時、
自分の存在というものを不思議に思う。
私という存在を含めて、この世の中にある全てのものは
誰一人作る事が出来ないであろう。
作れると錯覚しているのは、もうすでに「ある」パーツを組み合わせているにすぎないのだ。
パーツの組み合わせや
すでに「ある」存在の能力を見つけ出すのはとても素晴らしく、尊いことで
それはすなわち、すでに「ある」存在の潜在能力の高さゆえ、という事でもある。
そう考えていくと、何て面白い世界なんだろうと思う。
私の好きなアートワークの世界に似ているではないか。
もうすでに「ある」存在達に敬意を示さずにはいられないと共に、自分の心の中に形にならないモヤモヤしたものが浮かび上がる。
何か分かりそうで分からない。
誰しも心に空を持っている
ふと視線を上げたとき
そこには綺麗な空があって
ああ、そう言えば空をしばらく見上げていなかったと思う。
いつもあるのに
見えているようで見えていなかった空は
どこまでも遠く澄み渡っていて
私の心もふと溶け込みそうになる。
視線を上げて空を見上げれば
モヤモヤとした心も明るい方向へ動く事を知っているはずなのに
つい視線は下がり
混沌とした心の中に彷徨いこむ。
彷徨い込んだ時は何故か視線を上げる事に躊躇してしまい
なかなか上げられない自分がいるけれど
でもいつだって美しい空は頭の上にある。
視線を一度上げれば
心があっという間に溶け込みそうな空が
いつだってあるのに。
晴れの日も
雲の多い日も
雨の日も。
美しい夕暮れも夜空も。
私の心の片隅にある空の色
その色が頭上にある空の色と交わった時の至福さよ。
いつだって私の心は空と共にいたい、と本心はそう呟く。
歳を取っても出会う貴重な人
側にいるだけでも、姿が見えるだけでも安心する人の存在は貴重だ。
仕事柄老人施設にいくのだが、色んな方がいる。
今日行った場所は皆フレンドリーに接してくれ、私もその方達に会うのを楽しみにしている。その中でも色々料理の事などを教えてくれるキミヨさん(仮名)。
今日は会うなり
「昨日とっても悲しい事があったの」
という。
聞くと仲の良かったサダコ(仮名)さんが、他の施設に移動してしまったのだそうだ。
サダコさんは皆に愛される愛嬌溢れる106歳のおばあちゃんなのだが、キミヨさんとサダコさんはリビングでも一緒にいる事が多く、確かに仲が良かった。
とは言え、実際はお互い耳が遠く会話もままならない。
だけど一緒にいる事が心地よかったのだろう。特に年下の(といっても96歳)キミヨさんはサダコさんの事をとても気にかけて、勝手に車椅子を動かしてトイレに行こうとするサダコさんを必死に止め、職員さんを呼んだりもしていた。
(てか、106歳で自力で車椅子を動かせる事自体がすごい)
サダコさんは106歳だけど、しっかり残さずご飯を食べるの!と私に嬉しそうに教えてくれたこともある。
「サダコさんと別れる時、お互い泣いたの。別れって本当に辛い」
そいう言ってキミヨさんはうなだれてしまった。
実際にはサダコさんが移った施設はお隣の施設なのだが、自由に外に出られず会いにいけないのは何とももどかしい。
側にいるだけで安心できる存在の人。
キミヨさんは暫く寂しいだろうなあ。