ゾウの見た夢

残念ながら年には逆らえないおばちゃんの独り言

右脳優位、憧れるねえ

毎日目標と、やる事をノートに書いていくと人生が底上げされる、

というような事を目にしたので早速やってみた。

 

確かにやる事が明確になると、それをこなそうと動くようになるように思う。

が、しかし。

すごく疲れるのは慣れていないせだろうか。

「やる事」に常に追われていて、くつろげないような気がするのはやはり自分が慣れていないせいなのだろうか。

 

一方、右脳優位にする為に思考を止めると「今ここ」になり、自然にやる事が浮かんでくる。それをやっていくと、自然に道は開ける、という考え方もある。

個人的にはこちらの方が好きだし、自分にしっくりくるのもこちらの方だ。

が、いかんせん、自分の思考を止めるというのはなかなか難しい。

 

人間というのは、何か目標がないと辛くなるもののような気がする。

時間があれば色んな事が出来ると思いがちだが、以外に出来る事は限られるし自分が思っているよりもやらないものである、という事は実際に自分を振り返ってもそうだと思う。その点ではやる事が明確である事は、限られた1日を有意義に使えるようにも思う。

が、いかんせん自分が小さく縮こまるような感覚があるのは何故だ。

 

で、この右脳優位にする事(思考を止める)の状態はすごく憧れがあるのだが、自分の奥底に怖さを感じているのも事実。

それが一体何なのかと突き止めていくと、結局の所「私は何の目標もない」=「私は存在している意味がない」と、まあ自分でもびっくりする位の極端な感情が眠っている事に気がつくのね。

何も考えない事に不安を抱く。常に何か考え、問題を解決しようと考える。(実際はくだらない事や誰かを批判する事が多いのだが)

ずっとそれをやってきたからだよね。

 

考える事は悪い事ではないのかもしれないけれど…、自分自身ともっと繋がりたいと実際は切に願う。

もう既にあったのなら

何かを創造したくて

ならばやってみようと試みたある日。

 

心に浮かんだ絵を紙の上に描きたくなり

描いてみて思った。

いや、紛れもない事実として分かった。

 

「全てはもうある」

 

そんな事はもう知っていると思っていたけれど

私は何一つ知っていなくて、その衝撃たるや。

 

一粒の種を土に植える

種は根を張り芽を出す。

その一連を絵で描こうとした時、種は既に存在し

土もすでに存在する事に気が付いたのだ。

 

その衝撃的事実を改めて体感した時、

自分の存在というものを不思議に思う。

 

私という存在を含めて、この世の中にある全てのものは

誰一人作る事が出来ないであろう。

作れると錯覚しているのは、もうすでに「ある」パーツを組み合わせているにすぎないのだ。

 

パーツの組み合わせや

すでに「ある」存在の能力を見つけ出すのはとても素晴らしく、尊いことで

それはすなわち、すでに「ある」存在の潜在能力の高さゆえ、という事でもある。

 

そう考えていくと、何て面白い世界なんだろうと思う。

私の好きなアートワークの世界に似ているではないか。

もうすでに「ある」存在達に敬意を示さずにはいられないと共に、自分の心の中に形にならないモヤモヤしたものが浮かび上がる。

何か分かりそうで分からない。

 

 

誰しも心に空を持っている

ふと視線を上げたとき

そこには綺麗な空があって

ああ、そう言えば空をしばらく見上げていなかったと思う。

 

いつもあるのに

見えているようで見えていなかった空は

どこまでも遠く澄み渡っていて

私の心もふと溶け込みそうになる。

 

視線を上げて空を見上げれば

モヤモヤとした心も明るい方向へ動く事を知っているはずなのに

つい視線は下がり

混沌とした心の中に彷徨いこむ。

彷徨い込んだ時は何故か視線を上げる事に躊躇してしまい

なかなか上げられない自分がいるけれど

でもいつだって美しい空は頭の上にある。

 

視線を一度上げれば

心があっという間に溶け込みそうな空が

いつだってあるのに。

 

晴れの日も

雲の多い日も

雨の日も。

 

美しい夕暮れも夜空も。

 

私の心の片隅にある空の色

その色が頭上にある空の色と交わった時の至福さよ。

 

いつだって私の心は空と共にいたい、と本心はそう呟く。

歳を取っても出会う貴重な人

側にいるだけでも、姿が見えるだけでも安心する人の存在は貴重だ。

 

仕事柄老人施設にいくのだが、色んな方がいる。

今日行った場所は皆フレンドリーに接してくれ、私もその方達に会うのを楽しみにしている。その中でも色々料理の事などを教えてくれるキミヨさん(仮名)。

今日は会うなり

「昨日とっても悲しい事があったの」

という。

聞くと仲の良かったサダコ(仮名)さんが、他の施設に移動してしまったのだそうだ。

サダコさんは皆に愛される愛嬌溢れる106歳のおばあちゃんなのだが、キミヨさんとサダコさんはリビングでも一緒にいる事が多く、確かに仲が良かった。

とは言え、実際はお互い耳が遠く会話もままならない。

だけど一緒にいる事が心地よかったのだろう。特に年下の(といっても96歳)キミヨさんはサダコさんの事をとても気にかけて、勝手に車椅子を動かしてトイレに行こうとするサダコさんを必死に止め、職員さんを呼んだりもしていた。

(てか、106歳で自力で車椅子を動かせる事自体がすごい)

サダコさんは106歳だけど、しっかり残さずご飯を食べるの!と私に嬉しそうに教えてくれたこともある。

 

「サダコさんと別れる時、お互い泣いたの。別れって本当に辛い」

そいう言ってキミヨさんはうなだれてしまった。

実際にはサダコさんが移った施設はお隣の施設なのだが、自由に外に出られず会いにいけないのは何とももどかしい。

側にいるだけで安心できる存在の人。

キミヨさんは暫く寂しいだろうなあ。

 

旅と拡がり

やりたい事の一つに長期の旅行がある。

 

子供が出来る前、私は夫と2人でバックパッカーの長旅をした事がある。

もう15年以上前の事だから体力も気力も今よりもあって、あの時本当に行ってよかったと心の底から思う。

前のようには動けないけれど、今もよくあの旅の続きをしたいなあ、と頭を掠めるのは旅というものが私にとって楽しいものだけではなく、意味のあるものだからなのだと思う。

 

どうして旅をしたいのか考えてみた。

自然や街並み含めて自分の知らない世界を見てみたい、知らない文化に触れてみたい。味わってもみたい。

 

じゃあどうしてそれらをやってみたいのか考えてみた。

そしてやっと分かったんだよね。

 

私は自分の中の固定概念を壊したいのかもしれない。

 

旅、特に海外は固定概念を嫌でも外さなくてはいけないような場面に出くわす事が多いように思う。い意味でも悪い意味でも。

日本人の常識が全く通じず、何て意地悪なんだ!と思ったりもするし、その逆で優しさに感動する事もある。

長い間かけて出来上がった自然の地形は、自分の小ささを認識せざるを得ないし、素晴らしい建築物(特に歴史あるもの)はその崇高さに胸を打たれたりする。

それらに触れたとき、自分の何かが良い意味で壊れる瞬間があって、自分の中の何かが拡がる感じがするのだ。

 

きっとそれを味わいたくて旅をしたくなるのだと思う。

今まで旅をしたいなーとばかり思っていたけれど、どうしてそう思うのかを考えた事がなかった。だから改めて考えてみて、自分なりの答えが出せた時ちょっと嬉しかったんだよね。

だってそれって、旅に関わらずきっと私にとって重要な事の1つであるだろうから。

 

 

 

 

 

時間とは命の流れ

時間の流れとは不思議なもので、年齢を重ねると早く感じるのは何故なのだろう?

と思う。

 

思春期真っただ中の娘を見ていて、時間の使い方がもったいないと思う事があるのだが、ふと自分を振り返ったとき、学生の頃は時間の流れがもっとゆっくりだったように思う。全ての時間が自分のもので、その時間を持て余していた、とでも言おうか。

何か刺激的な事はないか、とかそんな事ばかり考えていたようにも思う。

 

それがいつしか「刺激的」な事は避けるようになり日々安泰に暮らす事を求めるようになった。

とは言え、「刺激」の種類も年齢と共に変わってきて、学生の頃の「刺激」と言えばちょっとワクワクしたり恋のドキドキだったり、ちょっとハラハラしたり、全体的にプラスの刺激だったな、と自分を振り返ると思う。が、この年になると「刺激」の分野がかわり、「刺激」とは圧倒的に面倒くさいマイナスの方向に転化するように思うのは私だけであろうか。

仕事や家族を含めた人間関係のゴタゴタ、ストレス。今私にとっての「刺激」とは、この分野が圧倒的に増える。

 

この違いは何なのだろうか、と思ったりするが、実際若かりし頃の刺激ばかりを今も求めていたとしたら、何というか、「こいつの頭は花畑だ、ちょっとヤバいやつだ」と近づきたくない人間に成り上がる事もまた事実であるように思う。

あっ、でもどうかな。逆に若々しくて憧れたりするのかもしれないな。

 

そう考えると若かりし頃の人生経験ほとんどの状態って、全てが初めてだったり未知の世界だったりすると思うのだ。

それに対するワクワクは確かにプラスの刺激と言ってもいい。

だとすれば、今からプラスの刺激を求めるには新しい「興味のある」分野を開拓せよ、という事か。

 

ダラダラゴロンの思春期真っただ中の娘を見ながら、ちょっとイラつく私は思い出す。そういえば私にもそんな時間があって、今思えばそれはある意味貴重な時間であったと。

 

自分よ、自分もそうであった事を思い出すのだ。

 

私を見て!って面倒な大人の呟き

承認欲求からの解放とはどのようなものなのだろう。

 

人間少なからず承認欲求はあると思うのだが、自分は割と少ないのではないか、いや、少なくなってきたのではないかと思っていた。年齢と共に。

 

NON NON。

バリバリあるやんけ!っていうか塊じゃん!

って気が付いてしまった今日の朝。

 

そもそも承認欲求って人が生き延びるために身に着けた物なのではないか。

それも無意識に。

恐らく子供の頃に親に認められる事が最初のステップだと思うのだが、それは子供にとって生き延びるための頑張りでもある。

親に認められたくて子供は頑張るのだ。

いい子になってみたり、地団駄ふんだり。どうやったら親に振り向いてもらえるのか、それはもう試行錯誤の連続の上に成り立っているようにも思う。

 

そう、

承認欲求=自分を守るもの=命を守るもの

と、最終形態は自分の命を守る為にあるものなのかもしれない、と思うのだ。

なんせ子供の場合は親から見放されたら命を保つ事は出来ないから。

大人になるにつれ、それに様々な枝葉がついているからややこしくなるし、一見軽く見えたりする承認欲求だが(SNSの「いいね」数だったり)、最終的には「自分の命を守るため」という重い理由に行きつくと、果たしてこの欲求というものが無くなる、という状態が可能なのだろうか、という疑問にも行きつく。

 

本来ならば、自立して生活するようになったなら承認欲求など本当は必要ない様にも思うのだが、いかんせん、ふとした瞬間にこの欲求が頭をもたげ出す所を見ると、根っこが深いな、とも思う。

 

承認欲求が無くなった世界とはどんなものなのか私には未知の世界だが、でもきっと、自由な世界が広がるのではないかと想像する。

私は私

あなたはあなた

あなたが私を選ばなくとも私は私

私があなたを選ばなくともあなたはあなた

そこにお互い一切の価値の変化はない

私があなたを選んだとしてもあなたはあなた

あなたが私を選んだとしても私は私

お互いの良さも価値も知っていて

受け入れられない部分もある

あなたを受け入れなくてもあなたの価値は変わる事はなく

私が受け入れられなくても私の価値も変わる事はない

ただそれだけの話