ゾウの見た夢

残念ながら年には逆らえないおばちゃんの独り言

闇について考える

最近「闇」について考える。

私はキリスト教徒ではないので、私の考え(解釈)が間違っている事を前提として思った事を書いてみる事にする。

 

新約聖書にある

「神は仰せられた。『光あれ。』すると光があった。」

という一文。

という事は先に闇があったって事だ。

何故なら闇があって初めて光と認識できるから。逆の事も言える。光の中に闇があるから、それが闇だと言うことが認識できる。

私達人間が神の一部であるならば(つまり神の「光」を持っているならば)、光りを求め、光りの方向へ行くのは自然な事。

だからこそ、闇の存在はこの人間世界においては重要になってくるのではないか、と思うのだ。

 

闇の世界を歓迎しているわけでもないし(むしろ避けたい)、闇の世界を良しとしているわけでは決してない。

 

ただ、植物の成長を眺めたとき、思うのだ。

「まずは闇の中で生まれる。それも光を求めて」

 

我が家の庭には鬼クルミの木があって、そのクルミの実で毎年お正月にクルミ餅を作る。そのクルミ餅を作る為の作業中、クルミの殻を割る事から始まるのだが、これが固くて中身を取り出すまでに手間がかかる。

で、毎年思うわけだ。

クルミの実が土の中に入り込んだ時、この固い殻をよくぞ割って根を芽を出すものだと。

私はクルミの実ではないので、それが辛い事なのか痛い事なのかは分からない。ただどの種にも共通する事なのだが、あの固い殻を破る時、人間であればかなりの痛みや苦労を追う事になるのではないのではないかと思うのだ。

その殻を土の中(闇の中)で割り、生きるための根をまず出し、よい具合に根を張った所で芽を出すために光の方向へ向かう。

 

これらの過程を人生に置き換えたとき、うまく言えないが真理を見せられたような(教えられた様な)気になるのだ。

 

よく、人生の中の辛い時期を乗り越えたとき、振り返るとその事が自分を成長させてくれた、というような話は良く聞くし、実際自分の人生を振り返った時、そうであったと思う。

ただ、その闇の中にいる時は光が見えず、そして見える気もせず、ひたすら苦しいのは確かだ。もがいてもがいて、そのもがき方が良いのか悪いのかもよく分からず、でも必死に食らいつき、そして時と共に良い意味で諦め、手放した時に光が見え始めるようにも思う。

 

もしも人生が光を求める学びの場であるならば、闇は成長の場といえるのかもしれない。自分の殻を破る為の闇。

そんな事を考える。

正直闇はあまり歓迎したくはないが。