ゾウの見た夢

残念ながら年には逆らえないおばちゃんの独り言

闇の意味付け

母親と同じ病気を発症した時、ああ、私もああなるのかと目の前が真っ暗になった。

 

静かにゆっくり、時々怒涛の様に襲ってくる痛みは私の心に恐怖心を植え付ける。

ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。

そう何回も思うがその答えは見つかるはずもない。

 

自分の本来の人生を歩めば病気は克服する。

そういう本を眺めながら、私の本来の人生ってなんだろうと考える。

もうずっと考えてるけど見つからず、分からず、今に至る。

 

膝を抱えこみたくなるような暗さに飲み込まれそうになり、ふと、闇って実は心地のよい安堵感があるんだな、と気が付く。

種が土の中に蒔かれ根を出す大事な部分は暗闇の中。

胎児が育つお腹の中もある意味暗闇の中。

大事な部分が闇の中で育って初めて光を求めて出ていく。

 

そう考えると光を求める前に闇があるんだろうか、などと考える。

そして闇が恐ろしいものでもないように感じてくるのだ。闇は大事なものを育てている時。

ある意味そうとも言える。。。のか?

 

 

 

聖人ではなく星人

それは儚い夢物語、だったのかもしれない。

 

自分の病気を克服し、かつて味わっていた自分と同じような苦しみの人達を救い、導く。

心理学を使って相手が本来の姿に戻れるよう、導く。

子供達が日本から世界に羽ばたけるような学校を作り、導く。

 

因みにこれらはかつて私が描いていた理想の自分だ。

こうやって恥じらいもなく羅列してみると、一体私は何をそんなに導きたいのだろうかと思う(笑)。

あとこんなのもあったな。

 

自分の施すアロママッサージで相手を癒し、人生を良い方へ導く。

栄養学を学び、体調が悪い人を良くし、人生も良い方へ導く。

 

こうなるともう、私は「導きたい星人」じゃないか。

 

いやあ…憧れだったんだよね。

実際自分の近くにそういう人もいたからなあ。

カリスマとかさー、あなたのお陰で人生変わりました!とかさー、ほんとそんな人になりたかったわー。

現実は自分の病気一つ治せずぐずついているし、栄養学学んだはいいが、結局サプリ飲むならグレードの良いマルチビタミンがいい、とか、自分の心を扱うので精一杯とか。

 

そもそも本当に「導く人」は「導きたい」なんて思ってないんだけどねー。

自分の心の癖を何とかしたい。

 

生きがい

「私ね、七夕の短冊に『生きがいが見つかりますように』って書いたの」

 

Sさんはその施設の中でも若く、しっかりしている方だ。ただ、身体があまり動かない。

今まで歯を大切にしてきたことが分かるお口の中で、事実、ご本人も定期的に歯科医へ出向き、ご自身もこだわりを持ってケアしていたと言っていた。

「だけどね、まさか(身体が)こうなっちゃうなんて。私の親が総入れ歯だったから、私は歯を残したくて頑張ってたのよ。でも今はちゃんと磨けなくって。だからこの日(訪問歯科の日)を楽しみにしているの」

そう言ってSさんはふんわり笑う。

 

私が出来る事と言えば、宝石のようなSさんの歯を自分なりに一生懸命磨く事しか出来ないが、そう言ってもらえる事は、我々のような仕事をしている人にとって本当にありがたい。それこそ「生きがい」に通じる。

 

この仕事をしていると、色んな方に会う。

その中でハッとする言葉や考えさせられる言葉があり、冒頭のSさんの言葉もその一つだ。

「私は何のために生きているのか」

たまに聞く言葉だ。認知症の男性もこの言葉をよく言っていた。以前はバリバリに働いていた社長さんで、人当たりも良い事から、恐らく人が好きで交友関係も広かったんだろうな、と推測できる。

 

「生きがい」

 

動けなくなった身体、動きにくくなった頭、施設に入って面倒を見てもらえるのはいいが、だが人間というのは「何のために生きているのか」をいくつになっても追うものなのだと痛感する。(人にもよるが)

そして自分自身を振り返る。

私にとっての生きがいは何であろうと。

私は何のために生きているのであろうかと。

働いていたり、自分が家族の一員として機能している時はそんな事を考える暇などないが、そこから外れた時、私は自分の立場をどう位置付けるのだろう。

 

そう考えたとき、つくづく人間はそれがどんな形であれ社会貢献している事が(子育ても私は社会貢献だと思っている)精神的満足を得られるのだと痛感する。

 

聖人君子を夢見た日

「幽霊より妖怪よりも怖いのは人間だ。

何が怖いって人間だよ。人間が一番怖い」

 

これは誰が言った言葉だっただろうと思い返す。

身近な人だったような、身近じゃない人だったような。

 

幼少の頃に魔法や魔女に憧れを持っていた私は、ここの所

「そういえば魔女が好きだった」という事を突然思い出し、魔女本を読んでいる。

あー、だけどあれだね。頭にぜんっぜん入ってこないのよ(笑)。

昔これらの本と出合っていたら、ものすごい勢いで吸収していたんじゃなかろうか。

何のハーブがどの惑星と関係があるとか、キャンドルの儀式とか。

多分、いや絶対こっそりやってただろう。

だけど逆に「あー、こう言うことね」ってストンと入ってくる部分もあって、伊達に年取っていた訳じゃないんだ、とムフフとほくそ笑む部分もある。

 

今まで興味のある分野が「目には見えないけれど、確実に存在しているもの」だったから、ある意味魔法っぽいと言えばそうなのかもしれない。

香りの世界や心の世界、菌の世界や栄養の世界はまさにそうで、パッと見たその見た目とは別の、見えない部分の働きがメインで重要になってくる。

そういう世界が好きでついつい惹かれるんだけど、ある意味魔法の分野と重なるのかもしれない。

 

閑話休題

 

冒頭の言葉なんだけど、魔女本を読んでいたら、作者の人が菜食主義をやっていたらエネルギー的に敏感になって、負のエネルギーを見た瞬間ショックと恐怖に包まれたってあって。

その方はお肉を食べる事によってそれは無くなったらしい(お肉すごい)。

で、その文章を読んだ時、冒頭の言葉を思い出してね。

私は全然そういうのが見えないけれど、これって見える人からすればすごい苦痛だろうな、精神病むだろうな、と思ったわけ。

だって人間って心の中は結構皆黒くないか?

心の中で文句言ったり(時としてそれは外に漏れるが)、悪態ついたりと、私は結構あって、それが見えないだけありがたいというか。

だけど、それらが見えるとなると、見える人のその苦痛たるや想像を越す。それとも慣れるんだろうか。

 

そう思いながら朝、夫に対して心の中で文句を言っていた私を猛省するわけですよ。

私の心の中の黒い文句がどうか夫に飛んでいきませんように、と今更ながら思う。

 

あー、聖人君子になれるものならなりたい。

あと何百回生まれ変わったらなれるかなー。

何百回じゃ足りないか(笑)。

 

 

 

「これだ!」とエゴイズム

うだるような暑さの中

目を閉じて、心の中で大事な人に会う。

 

私が人生に求めているものが何なのか良く分からず

いつも、より良い「それ」を求めている事、

私が常に渇望している、私としての生きる道は何なのか、

どうしたらそれが見つかるのか。

 

私の中の大切な人に矢継ぎ早に問いかける。

 

笑顔で聞いていたその人は一言

「それはある種のエゴイズム」

 

そういって「バ~イ」と爽やかに去っていった。

 

 

残された私は考える。

 

世の中には

本当の自分に出会い、本当に自分がやりたい事をすると

魂が輝き、人生もまた輝く、

とか

自分の使命に沿って生きたとき

その人は輝く

という言葉がある。

 

実際その通りなんだと思う。

 

だが、ふと我が身を顧みたとき

「これが私の使命よ!」

とキラキラ輝いた人生を送る私の姿には何故か違和感があり、

そしてどうしてそんな人生を送りたいのか考えたとき

その底にあったものは

「認められたい」

という、身もふたもないものであった。

 

きっと「これが私の使命」と進んでいる人もいるだろう。

 

だがきっと、本当にそう思って進んでいる人には

「認められたい」

はきっと無い。

 

ああ、だが私は憧れる。

 

「これだ!」と思えるものが人生にある人を。

 

誰に何を言われようがそれをとことん追求し、

そして人に貢献する事。

 

私にもきっとそんなものがあるに違いない、そう信じ続けてきたけれど、

その「これだ!」と思えるような物は人にとって大きな差があり、

多くの人々に貢献できるような人から、家族単位で貢献する人もいて、

私はきっと家族単位なんだろうな、とふと思う。

とは言え、「これだ!」は分からないんだけど。

 

良い悪いじゃないんだけどね。

でもやっぱり納得したくない自分もいる。

 

エゴイズムか…。

 

 

風になりたい

我が家の猫はピアノの音が好きだ。

それもどちらかと言えばゆったりとした音。

小さな子供のように鳴き続ける時、ピアノの曲をかけると静かになって落ち着く。

人間の私にとっても心地よい音はどうやら愛猫にも心地よいらしい。

 

音は不思議だと思う事がよくある。

例えば同じ楽器を弾いても人によって出てくる音は全く違い、それは上手いとか下手とかそういうよりも、もっと深い部分の違いなんだろうなあと昔から思う。

自分自身の心に描いた音、というか心の持ちよう、というか、その人なりの音が出て

そしてそれは誤魔化しようが無いようにも思う。

 

だから心地よい音楽を届けてくれる人に、私は心の奥底から感謝する。

そして憧れを持つのだ。

 

自然の奏でる音がどこまでも心地よいのは、きっと人もまたその一部だからなのだろう。

自然の音に意識を向けたとき、私はとても幸せを感じる。

風に乗って葉を揺らす音を聞いた時、私はその中に溶け込みたくなる。

願わくばその風と共に木々の葉を揺らしたくなるのだ。

そしてかつて私は風と共に揺らしていた事があった、と気がつく瞬間がある。

何故だか分からないけど、そう思う瞬間がある。

早くその風になりたいけれど、それができるのは私がやるべきことをやって、この寿命が尽きてから、という事も分かっている。

 

この身体が重くて窮屈に感じるのは、私の心が窮屈に感じているからなのだろうか。

風になりたい、そんな歌があったな。

 

命の音

猫がなく ミ―ミーニャオウ

鳥がなく ホーホケキョ ピーピーピー

ピアノの音がする スピーカーから心地よく

猫の毛づくろいの音がする ペチャペチャペチャジャリ

猫の鈴の音がする チリンチリリ

カラスがないた カアカアカア

また鳥がなく ピーピーピースピピピチュンチュン

誰かがジョウロを置いたような音 ゴンッ

木々の葉が風に揺れる サラサラサラ

電車の音 ガーガーゴトゴトゴト

 

私が今聞こえている音。

 

それらは過ぎゆく時間と共に流れる音で、命の音。

私が感じる命の音。

私の命の中の一瞬の出来事の音。